違いを生み出すという呪縛

ほんとこれ、どうすればいいんだろう。

月日の流れる時間というのは早いもので、前回の記事更新は8月らしい。
そんなにさぼったつもりは無いんだけど、事実というのは残酷だ。

さてさて、毎度のことながら少し覚書を。

最近ちっともエロ小説が書けていないんだけど、一つはまあ百合姫とかその他短編の影響というのと、もう一つは単純にエッチシーンの単調さというか、過去に書いた感が強すぎるというのがある。
これはもうやった、があまりにも多すぎるんだ。
だったら別にこうじゃなくてもいいよね、前のでいいよね。
そういうふうに思ってしまってどうにも書けない。

なんなんだろうね、これ。
どうすればいいんだろうね。

いや、これがもしかしたら趣味とその先の境目なのかもしれない。
やったことのあることの焼き回しをいかに量産していくか。
結局はそこに帰着するのかもしれない。

あるいはもしかしたら、〝需要〟という他人の求める何かを嗅ぎ取ってゆくということなんだろうか。
単純な自分の興味の外側にある部分にモチベーションを求める、みたいなそういうことかもしれない。

……まあ、金銭関係があれば書くのか? と言われたら多分イエスだ。
趣味ではなくて仕事として書く。それだったら多少流れが同じでも気にならないだろう。
問題はそれを受け手がどう感じるかということだけど、そもそも小説というモノの本質は物語であって、エロシーンでどうにかしようという試みが間違っているのかもしれない。
あるいはけれど、そもそも小説に依らずみんなぶつかる壁である気もする。

イラストだって構図は大体おんなじになる。
エロ漫画だってそうだ。おおよそ大体、作者が同じならエロシーンは同じ。
シチュエーションが微妙に違うくらい。

存外、そんなもんなのかもしれない。

東方だってシューティングという根幹は変わってない。
神主の曲調は……でも変わっている気がするっちゃするけど、多分特徴的な部分はあんまり変わってないんだろう。
分かる人が聞いたら「このコードまた使ってるな」とかって分かるのかもしれない。

短編であれば短編であるほど出力できる幅は小さくなる。
ましてエロシーン。バリエーションをつけると言っても限界がある。
堕ち方に幅を持たせる工夫はできないことは無いんだろうけど、もしかしたらボクら作り手が考えるほど変化がある必要は無いのかもしれない。

実際、その人の作品が好きだから読む。見る。買う、という時に。
前回とどこがどう変化しているのかなんて細部まで見やしない。
エロいと思ったところで抜く。エロいと思う部分が共通しているから抜ける。
多分それくらいの違いだ。
この作者さんが好き、というのはあるけれど「じゃあなんで?」と聞かれればすごく曖昧に「雰囲気」と答えることが多いし、それでいいのかもしれない。
長い目、それこそ数年スパンで見れば微妙ながら変わっていくんだろうし。

エロ漫画で言えば、微妙なシチュの違いと微妙な体位の違い。実の所これくらいしかない。
イラストだともっと限定的で、塗りとか背景とかそういう所が主になる。

結局悩みすぎなんだろうか。
全てが全て新しくないといけないという部分に囚われ過ぎなんだろうか。
「またああいうの書いて」というのが出ている時点でむしろ焼き回しが少なすぎるということなんだろうか。

答えはさっぱり分からないけれど、ただ少なくとも「いつでも常に新しいものを生み出し続ける」というのは多分無理だ。
一旦生み出したものを成長させて、その間に別の柱を育てていく……みたいな、そんな戦略にならざるを得ないんだろうな、とは思う。

……うん。

えっちぃ覚え書き小説全般
えろんのかんづめ

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