文章作法なんてのはそりゃ守るに越したことはない

この界隈にいるとまま聞こえてくる「文章作法守るべき?」問題。
ボク自身はこれに対するスタンスは相当はっきりしていて、「そりゃ守るに越したことはないに決まってんだろ」という身も蓋もないものだ。

で、なんでかって話なんだけど。
そもそも論にして、文章作法ってなんやねん? っていう所がスタートラインだと思うのよね。
特に「地の文は一文字分空けましょう」ってのは最低限守らなきゃいけない所で、理由は単純明快、読みにくいからだ。
特に縦書きにしてみるとよく分かる。読めたもんじゃない。

三点リーダやダッシュを二個続けて使いましょうっていうのは「まあそういうもんなんだなぁ……」というくらいでしかボクもないんだけど、〝・・・〟ってのがダメなのは分かる。
そもそも〝・〟ってのは〝中黒〟って名称がついてるわけだけど、これは同種の物を並列で並べる時の記号だからね。英語で言えばカンマだ。それを3つ続けるっていうのはどう考えたっておかしい。

つまり、この辺は創り手として最低限守るべきラインだ。

絵で言えば「等身をきちんと考えましょう」、音楽で言えば「この組み合わせは不協和音です」。
そういった類のモノであって、それに対して歯向かうのは、別に全否定はしないけどまともに読んでもらえないまんま閉じられるっていうリスクを背負う事になる。
そりゃそうだ。
最低限のバランスすら守られていない絵とか、不協和音鳴りまくりの音楽なんて普通は見向きもしない。少なくともボクは〝・・・〟なんて表記を見た瞬間に読む気を無くす。

で、こういう事言ってると「作法なんて変わるもんなんだから古いこと言ってんじゃねーよ」というような話が出てくる。
特に文頭空けとかね。このブログではボクも空けてないしね。
これに対しても話は簡単で、横書き、特にブラウザ上で文を読むにはそれに特化した形態があるというのも事実だということだ。

その筆頭が文頭空け問題。
人間の目ってのは不思議で、横書きだと縦書きとは全く違った印象を受ける。特に行間のつまりは最悪で、だからネット小説では基本的に文頭空けの代わりに「」前後での空行挿入がそれこそ文章作法になっている。
だからボクは、ネット小説において文頭空けがなされていないのは文章作法の前提条件である〝読みにくい〟に引っかからないから、まあ空いてなくてもいいかな、とは思っている。

しかし、だ。
実のところ「作法なんて変わるもんなんだから古いこと言ってんじゃねーよ」って言う人というのは往々にしてそもそも作法を知らない事がほとんどで、だからそれは〝文頭を詰めている〟のではなくて〝ただそうなってる〟んだよね。
で、その場合、文頭が詰まってる詰まってないとかいう以前に読めたもんじゃない。
そんな最低限の作法を〝知らない〟人が〝読める文章〟を書けるはずがないんだよ。
主語が行方不明になったり、〝の〟が連続したり、句読点の使い方がおかしかったり。挙げればキリがない。

で、ボクくらいほとんど絵が描けない人間でも、「等身を考えたけどズレてしまった絵」と「等身をそもそも考えていない絵」というのは見ればすぐに分かる。
部活を経験した人や社会人の方であれば、後輩が「考えた結果そうした」のか「そもそも考えてない」のかはすぐに分かるっていうのを実感で知ってるはずだ。
結局人間、少しでも勉強して自分で挑戦したことがあればそれくらいは分かってしまう。
いわんや小説は文章、つまり日本語だ。ネイティブであれば年齢分だけ訓練を積み重ねているわけで、悲しいかな、読んだ瞬間に「作法を知ってるけどこう書いている」のか「作法を知らない」のかは分かってしまう。

と、いうわけで。

どんな形であれ、文章作法なんてのは知っておいて損はない。守っておくに越したことはない。
守れるけど守っていないのか、そもそも知らないのかは見れば一発で分かるから、崩すなら守れるようになってから崩せばいい。守破離ってやつだ。
だから、「文章作法なんて守らなくていーじゃん」なんてタバコ吸ってえばってる高校生みたいなこと言ってないで、兎にも角にもまずは学んでみんしゃいよ。
それに縛られる必要はないし、それを意識しすぎてなんにも動けなかった高校生の頃のボクみたいなのは論外だけど、〝知ってる〟ってのはそれだけで武器だからさ。

コラム的覚書小説全般
えろんのかんづめ

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